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entrance

「君の名前は、何といったかな」

投げかけられた言葉に体のどこかが反応したのか、深い眠りから覚めたように、意識が徐々に形を成していく。周囲の景色は初めて目にするもののように思えるが、知らない場所というわけでもなさそうだった。あるいは無意識のうちに自分の目が開いていて、ただその景色を機械的に、無機質な情報として頭の中に刻み込んでいたのかも知れないが。見覚えはあるが、どの類の感情も刺激しない景色。

「君の、名前は」

最初に問いかけてきた言葉が、もう一度尋ねる。言葉のする方へ体を向けると、部屋の隅で小さな事務机に向かって座る、初老の男性がこちらへ顔を向けていた。

「名前」

彼の右手では万年筆のようなものが、いらだちを抑えるためか、右のこめかみへあてがわれる役目を果たしている。事務机の上には古めかしい帳簿が広げられ、読み取れない文字で何かが書き連ねられている。薄暗いこの部屋に男性はいかにも似つかわしい様子で、そういえばこの部屋はどことなく、警察官が容疑者を調べるような部屋に似ている、と想起させるものだった。そんなところへ足を踏み入れたことのない自分にそう思わせるのは、薄暗さ、古めかしさ、生活感のなさなどが、自分に紋切り型の印象を与えているだけに過ぎないかも知れないが。

「そう、君の名前だ。教えてくれないか」

万年筆が右のこめかみを離れ、帳簿の紙面で軽快な音をたてる。彼はうんざりしているようにも見えたが、それにしてはどことなく、諦めのような風情も漂っているように思われた。天井からぶら下げられているのだろう電球が、彼の表情に暗い影を落としてみせる。そういえば、この部屋には窓がない。

「僕の、名前は」

regret

「後悔することってある?」

彼女の言葉はいつも突然で、そのときも僕は普通にドライブを楽しんでいるつもりだったのだけれど、どうやら彼女はそういうことで悩んでいたらしい。目の前をゆっくりと走るトラックから注意を逸らさずに、ハンドルを握りなおして言葉を返す。

「しないことはないよ。しっぱなしでもないけど」

しばらく黙り込んだ後、思い詰めた様子で一言。

「今日ね、別の男の子にも誘われてたんだ」

彼のことは嫌いではないけれど、二人でどこかへ遊びに行くような気は今のところ自分にはないし、もしそうして相手に勘違いさせるようなことがあっては申し訳ないし、何より自分も自分の身を守るなんてことを考えなきゃいけなくなるかも知れない。だから今回は彼からのお誘いは丁重にお断りして、前から約束のあったドライブへ出かけることにしたけれど、そういえば恋人でもないあなたとこうして二人で出かけるなんて、彼が知ったらどう思うだろう。彼女は、そんなことを矢継ぎ早に口にして、また黙り込んだ。

「僕は」

ため息をつく。

「今君が僕に話したこと、どうにかしてたら聞かないで済んでたんじゃないかって、そのことを今後悔してる」

age

「面接もしないんだと。どうかしとるわ」

久し振りに訪れた学食はもう昼時を過ぎていて、僕の他には二人の男女の清掃員が向かい合わせに座っているだけだった。彼(と彼女)は何か愚痴をこぼしあっていて、机に置かれた食事にはあまり手をつけていないようにも見えた。

「うちんとこのが一人、来月いっぱいで定年になるんだわ。そんでどこかからつてを辿って来るらしいんだけど、もう五十四なんだと。ありゃあかんわ」

そう不貞腐れる彼はもう定年まで三年もないらしいし、僕の記憶が間違っていなければ彼は二年前にここへ就職したはずだから、人事に口を出せるほどにベテランというわけではないはずだ。彼が文句を付ける年齢のことだって、彼に言えたことでもない。

つまりは、そういうことだ。

「どうかしとるわ」

ハッシュドビーフは、まだ熱かった。

fairy tale

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました。ふたりはひとざとからすこしはなれたおがわぞいにすんでいましたが、ひとがらのよいおじいさんたちをしたってわかものがときどきたずねてくれるので、ふたりのせいかつにはとくにこまるようなことはありませんでした。ねんじゅうあたたかいためくらしやすいとちがらで、ちいさなはたけをたがやし、おがわでさかなをつかまえ、もりできのみをひろえば、たべるものにこまることもありません。おじいさんたちをたずねるわかものたちも、かならずおみやげにたべものをもってくるので、ふたりはここすうねん、ひもじいおもいなどしたことがありませんでした。

「じゃあ、いってくるよ」

おじいさんはやまへしばかりにいき、ひとしごとおえてからはたけへむかうのがにっかです。

「いってらっしゃい、おじいさん」

おばあさんはおがわへいってきものをあらい、てんきのよいひにはもりへあしをはこぶのがにっかです。

ふたりはなにふじゆうなくおだやかにくらし、やがておじいさんがてんにめされるそのときまで、しずかでへいわなひびがつづきました。おだやかなえがおをうかべるおじいさんをみつめながら、おばあさんがたずねます。

「おじいさん、なにか、たりないものはありませんか」

おじいさんはこたえていいます。

「とくにないが、ぜいたくをいうと、おだやかすぎるまいにちにすこしだけつかれていたきがするよ。へいわがいちばんだとはわかっているが、おにたいじにむかうむすこがいたら、とおもうこともたしかにあった」

やがて日が暮れたとき、数十年振りに鬼が近くの村を襲い建物も村人も全て焼き払ったが、寄り添うように召された二人がそれを知ることは最期までなかったということです。

succubus

それがぼくの頭を埋め尽くしたのはもうずいぶんと昔のことで、その事実自体にも辟易しながらしかし抜け出せないでいる、思春期の悩み多き若者、なんて、柄にもないとはわかっているのだけれど。現実問題そこから一歩も動けないでいることだけは確かなのだから、まずそれを認めるべき、ではあるのだけれど。

「何考えてるの?」

突然、彼女はいつも突然現れる。ぼくは自分の頭の中身が覗かれていやしないかと、なぜこうも彼女のことを考えているときに限って目の前に現れるのだろうと、いつもそんなことを考える。必死でそれを皮膚の下に隠して、冷静な表情を作り上げて受け答える。

「別に、何も」

彼女が、嘲笑に歪んだ表情を見せる。

「女の子、当たり?」

ぼくは、きっと苦笑いだろう。

「当たり。きみのこと」

些細な反撃を試み、彼女をひとまず退かせることには成功するのだけれど、それが何になるわけでもないことはわかっていて、それはずっとそう繰り返してきたからなのだけれど。けれど、今日は一味違う手応えがあったようにも感じた。彼女の口が、声を出さずに動く。

「なんて?」

聞き取れないのではなくて、彼女は声にしなかった。

「さあ、好きな台詞当てはめたら?」

afraid

「怖いなぁ」

わたしの小さなつぶやきを彼は聞き逃さず、何が怖いの、と優しい声をかけて頭を撫でる。わたしは甘んじてそれを受け入れ、彼の胸に頭を寄せながら、こうして無意識に依存してしまうことや、それをあなたに知られてしまうことが怖いのよ、と、心の中でだけつぶやく。

命の終わるときに誰と一緒にいるのか、誰とも一緒にいないのか、それは今のわたしに知ることはできないけれど、今わたしの心を読み取れずに頭を撫でている彼とそうなりたいと、思ってはいない。

「もし明日死ぬことになったら、どうする?」

うーん、とうなってから、彼が途切れ途切れに答える。

「わからないよ、そんなこと急に言われても。でももし、君が嫌だって言わないんだったら、今みたいにこうして頭を撫でてるのも悪くない」

それ、なのよ。あなたは、人間が他人という存在なしには生きられないことや、自分では気付かないほどに心を委ねてしまうことや、結局最期の最後にはやっぱり独りになってしまうことを、知らないのだ。だから素敵な言葉に溺れたり、おとぎ話に酔うことができるのだ。

"Don't be afraid. god bless you."

何かの台詞が頭をよぎる。

『例えば日差しの暖かな小径を愛する人と二人で歩くとき、あなたの頭から病や死の一切はその姿を消すだろうか? もしそうだとしたら、それは幸せなことだろうか? 死ぬことを恐れずに、生きていられるだろうか?』

rendezvous

いつも通りのデートコースを通って、いつも通りの夕食を済ませて、いつも通りホテルで一晩を明かす。数週間に一度のこの習慣は、彼女が結婚した頃に始まって、彼女が子供を産んだその前後数ヶ月を除いてずっと続いている。これからも続くような気もするし、明日にも終わるかも知れない。

シャワーを浴びてローブに着替え、彼女がベッドサイドに腰を下ろす。何年経っても変わらないラインの脚を組んで、煙草を一本取り出し火をつける。

「あれ、煙草なんて吸ってたっけ」 「家じゃ吸わない。子供、まだ小さいし」

ふう、と慣れた様子で煙を吐く。結婚前は喫煙の習慣があったのかも知れない。

「じゃあ、僕と君の秘密ってわけか」 「今さら何言ってんのよ」

僕らの付き合いはそのものが秘密だから、と、彼女は笑ったのだろう。けれどその笑顔には翳りがあるような気がして、僕は彼女をじっと見つめた。彼女は、根負けしたようにため息をついた。

「あなたが煙草嫌いだって知ってるから。早く嫌いになってもらって、こんな関係終わりにしたいのよ」

そう言って彼女はふう、と、僕に煙を吹きかけた。

alarm

「くそ、安物め」

PM 11:00、ようやく寝付けた頃、目覚し時計に叩き起こされる。昨日は偶然仕事が休みになって(近年稀に見るサイズの台風、休業の損失と社員の命を釣り天秤にかけた所長の英断!)昼過ぎまで眠れることになったものだから、目覚まし時計のアラームを十一時過ぎにセットしたことをよく覚えている。この安物目覚まし時計は、午前と午後の区別がつかないらしい。

「一日が十二時間サイクルだなんて、素敵な生活してるよお前は」

けれどそれももう終わりだ。反射的に振り下ろした腕の下で、不幸にも事故に遭った人間の中身がそうするように、大事なパーツをぶちまけてしまっているらしい。時間が時間で真っ暗だから、そうらしい、ということしかわからないのだが。明かりを点けないままベッドから這い出して、何か飲むものを求めて台所へ向かう。

「血、出てる」

安物の目覚し時計を叩き潰した腕から、一筋、血が滴っている。そういえばあの時計は、半年前に別れた恋人が置いていったものではなかっただろうか。

「半年遅れで関係の清算、なんて」

冷蔵庫を開け、物色し、茶色の瓶を取り出す。そこから直接胃にウィスキーを流し込み、一息ついて、また流し込む。二回トイレに駆け込んだ後、ようやく彼女のことを忘れて眠りの淵に落ちることが出来た。時間は何時頃だったか、なんて、壊れた時計では知る由もなかったけれど。

repulsion

無償の愛とかいうやつを信じていた純粋な頃から、君との言葉のやり取りは実に素敵なものだった。一年も経たずにそんな季節は過ぎ去ってしまったけれど、その一年弱は僕にとって実に有意義で、恐らく無意識の君から数え切れないほどの物事を学び取ることができた。大人の事情もルールもやり口も、いつまでも嫌悪するものではなかった。いつかは誰もが、それに歩み寄ることを知るのだ。

「いつも君の言うことは、抽象的で哲学的だよね」 「そうかな。現実離れしたことは言ってないつもりだけど」

そう、僕は純粋だったから、真実が現実でないだなんて思いも寄らなかった。それを教えてくれたのは、君だった。

「本の中から出てきたみたいな人だよ、君は」

無償の愛とかいうものはもう信じていないし、そんなものが存在したところで誰かのためになるとは思っていない。全員が全員納得するような答えはどこにもないし、それを期待させるようなその言葉は誰のためにもならない。ないものは、ないのだ。

「へえ、僕も君のことをそう思ってた」

君との言葉のやり取りは実に素敵で、それは間もなく僕の目を覚まさせてくれた。他に得るものなど何もなくて、人間関係なんてそんなものだと知ったことも、僕にとっては大きな収穫のひとつだった。

さようなら、君。

repentance

「ねえ、聞いてる? どうかしたの?」

僕がよほど間抜けな表情でも浮かべていたのか、彼女は話を途中でやめて、僕にそう尋ねた。

「どうもしないよ。どうして?」 「だって、笑ってる」

頬を軽くさすってみたり、少しだけ引っ張ってみたりしたけれど、無意識にどんな表情を浮かべているか、なんて、自分自身でわかるはずもない。それが一瞬のものだったならなおさらだ。

「そう? ちょっと考え事をしながら君の話を聞いてたけど、そんな、笑うようなことなんて」 「何を考えてたの?」

柔らかい口調でも、鋭く核心に迫ろうとする言葉。

「昔の友達のことを思い出してた。君に、横顔が似てる」 「女の子?」 「そりゃそうだよ。君みたいな男は知らないよ」 「その子のこと、好きだった?」

彼女の言葉は、ときに遠慮がない。突然土足で踏み入られるようで僕は身構えることもあるけれど、きっと彼女にとってそれはとても自然なことで、筒抜けな感情も含めて、彼女の自然体なのだろう。

「今考えると、ね。当時は思いもしなかったよ」 「後悔してる? 今になって」 「さあ……少なくとも、一生あんな想いはしないだろうね」

彼女が口をとがらせる。

「君とのことだって多分そうだ。君みたいな女の子は他にいないから、一生ものの経験だと思ってるよ」 「ずるい言い方」

そうだね、と小さくつぶやきながら僕は、当時の自分がこんなずるい言い方を心得ていたらどうなったろう、と、少し残念に、少し心躍る気持ちでいた。

spectacles

寝起きの頭を奮い立たせて、ベッドライトの明かりを頼りに眼鏡を探す。欠伸をひとつふたつ重ねると、少しずつ視界が現実味を帯びてくる。涙が世界を歪めて、レンズの役割を果たす。

耳にかけた眼鏡は僕を叩き起こすように、雑然とした部屋を僕の目に強制的な力で認識させる。これが現実。部屋の整理整頓もままならない、独り暮らしの華のない男。眼鏡をかけることもそういう印象を与える要因になるかも知れない、と思ったこともあるけれど、それはもう昔の話だ。いい男は眼鏡だろうとコンタクトだろうといい男だし、だめな男が眼鏡をコンタクトに替えたくらいでだめでなくなることはない。眼鏡がどうだとか、そういうくだらない責任転嫁が、何よりの証拠だ。

「そう、くだらない、くだらない」

華のない、くだらない、ぱっとしない、悪い意味でのリアリティ、没個性、その他大勢、名前のない大衆、有象無象の一人。

眼鏡を外して、洗面所へ向かう。ぼやけた世界は、誰かと向き合う必要性を少しだけ忘れさせてくれる。

life science

「思うにだな、生命いのちというやつは、ひとつの連環linkageなんだよ。啓蒙家だの宗教家だのは、お前がお前として生きるように『お前の道はお前だけのものだ』なんて煽るが、そんなことはない。何千年も生きてきた人間の根っこの部分は、どこかで深く繋がってるんだ。お前が通った道が先に通られなかったことはないし、お前の道を後から追うものだって現れる」 「へえ、そういうものかな」 コギト・エルゴ・スムcogito ergo sumなんて嘘っぱちだ、お前はお前が望もうと望むまいとそこに居るし、お前を含んだ大きな流れはお前の意思とは関係なく流れ続ける。これは別にお前を煙に巻こうなんて気持ちから言うんじゃないぞ。数十年昔にはお前も赤ん坊だったし、あと数十年生きられるなら皺くちゃの年寄りになるだろう。洟をたらしてた時期もあれば、足腰立たなくなる時期もあるだろう。だけどそれは誰もが繰り返してきたことで、これからも繰り返すことだろうし、お前はそれをいつかどこかで暗に認めて」

僕の気のない返事に対して、それに気付いてか気付かずか熱弁を振るっていた彼は、ふと、小石に躓いた拍子に何かを思い出したような、そんな様子で喋るのを止めた。

それも、長くは持たなかったけれど。

「まあ、そういうことだな」 「どういう?」 「簡単なことさ。お前も俺も、生きている」

rescue

こえはとどかない こえはとどかない だれにもこえはとどくはずがない ひとりふるえてあさをまつだけ

どれくらい眠っていたのだろうか、私が目を覚ましたときには、明り取りの窓から差し込む光は夕日のそれへと変わっていた。昼日中から繁華街のホテルへ足を踏み入れることになるなんて、しかも相手は本当の名前も知らない行きずりの男、だなんて。

(ちょっと魔が差したのよ、こんな男と)

しかもいい歳した中年のおやじだなんて、お酒もなしに酔っ払っていたとしか思えない。こんな、太って脂ぎった醜い男。

タオルケットを体に巻きつけて、ベッドからそっと下りる。男を起こさないよう、できるだけ体に触れたりすることもないよう、ベッドから少し距離を置いてぐるりと壁沿いに部屋を歩き、洗面所へ向かう。蛇口をひねって少し水を流し、右手でそれをすくって目元にこすりつける。流れ落ちたしずくはまるで涙のようで、私はその情けない顔を笑いたかったけれど、そうしたら本当に涙が出てしまいそうで、泣きそうな顔になりながらそれを堪えた。

だれもきづかない だれもきづかない たすけはいつまでもあらわれないまま ひとりふるえてよるをこわがる

truth

「本当は」

本当は、なんて切り出したことは失敗だった、と私はすぐに後悔した。私には語れる真理なんて何もないのだし、自分の意思や行動原理を一口に説明し切れてしまうほど薄っぺらな人間でもない、と思っている。せいぜい「結局」だとか「つまり」だとか、話に現れた要素をまとめる程度の言葉にしておくべきだった。

「本当は、全部決めてたことなの」

ああ、嘘つきめ。何も決まってなんていなかったし、今も決まってなんていない。運命なんてものも信じていないくせに、未来を決め打ちできるほど強い意志なんて持っていないくせに。

「だから、そんな顔しないで」

言いたかったのはそれだけ、言えるのはそれだけ。虚ろな声が響く。

jam

暗い部屋で一人、テレビはつけたまま。

『ハニー、本当の愛ってのは目に見えないのさ』 『でもダーリン、最高のディナーは目も楽しませて当然よ』 『そりゃそうさ、見えなきゃ食べられないものだからな』 『じゃ愛もそうだわ、夢だけでご飯は食べられないもの』

くだらないやり取りで腹を抱えて笑えることのできるお国柄だったら、私はいくらか気持ちを楽にしていられただろうか? 明日へ向かう顔に気力を溢れさせて、小さな人間関係のこじれなんて痛手になり得ないわ、なんて、強気の発言で自分をごまかすことができていただろうか?

乗客に日本人は、 いませんでした。 いませんでした。 いませんでした。

夜が明けるのは、どれほど先のことか。途方もない。

youth

今よりいくらか若かった頃、といってもせいぜいが十年くらい前の話だけれど。自分の若さがいつまでも絶えないものだと、どこからか、絶対的な確信を得ていたのだろう。周りの誰が老いても、例え自分の実年齢が数を重ねていっても、心だけはいつまでも今のままの自分でいる、と。ユースが途絶えることはないのだ、と、絶対的な確信を。

もちろん現実はそうではなかったし、僕は気が付けば守りに入っているような有様で、けれどそれを家族や親戚は褒め、思春期よろしく葛藤に苛まれる日々を過ごしもした。

「誰だって通る道じゃない、すぐに慣れるわ」

と君は言うけれど、果たしてこれは僕にとって乗り越えられる壁かどうか? まだ、そこのところの見極めがつかないでいる。先行きの定まらない日々を、もし前向きな心でいられたなら、それこそ終わっていたはずの僕の若さが蘇った証ではあるのだけれど。

父さん、あなたのような器の大きさを、僕はまだ身に付けられないでいます。母さん、あなたのような繊細さを、僕はまだ遠くから眺めているだけです。ただ、日々は、当て所なく続く。ただ、野心だけが、枯れていく。

undergo

ああ、きっと歩きたかったのはここじゃない、と僕が気付いたのは、もうずっと遠くまで歩いてしまった後のことだった。けれども僕は足を止めずに、違うんだとわかっていながらも歩き続けている。歩く、歩く、誰に知られることもなく、夜の街道を、ひっそりと歩く。

「さらさらと、さらさらと」

諳んじる言葉なんて誰に届かなくてもいい、そう思っていた下心のなさが、僕をどんな境遇に置いただろう? 聞かれない言葉を語る意味なんてない。けれど、そんな汚い考え方をするようになった僕に、本当の意味で言葉を語ることができるだろうか?

「流れてゐるのでありました」

歩きたい道は歩けなかった。きっと、これからも歩けるようにはならないだろう。歩くつもりのなかった道を選んだのは、他ならぬ僕だからだ。歩きたかった道を捨てたのは、他ならぬ僕だからだ。僕の所業を誰かの所為にして、僕が救われるだろうか? まさか、そんなこと。

「汚れつちまつた悲しみに、今日も風さへ吹きすぎる」

manner

不躾な距離感を持った人間はある意味でとても幸せだけれど、彼(彼女)が誰かを幸せにするには途方もない努力が必要になる。あるいは自分そっくりの誰かを見つけることができたら、誰をも傷付けることなく八方丸く収まるのかも知れないが。残念ながら、僕は今までそのような例を見たことがない。

「大丈夫だって、何とかなるって」 「気を落とすなよ、お前はやればできるんだ」 「困ったときはいつでも呼んでね」 「独りだなんて思わないで」

彼らはきっと幸せに生きるだろう。歩き続ける道の上に、常に誰かの血痕を残しながら。彼らの背を見つめる僕は、血を流し続けながらも、彼らの幸せを願って止まない。自分が傷付けられたからといって、その相手の不幸せを願うことは、程度の低いことだとは言わないけれど、くだらないことだ。だから、彼らに幸せを。くたばれ。

siamese

体がばらばらになるような、芯から燃えて炎を吹き出すような、そんな夢を見た。フロイトやユングが僕をどんな人間だと評価するか知らないが、外の力で内部を変えるなんてことをナンセンスだとしか思っていない僕には、まさしく馬の耳に何とやら、かも知れない。そうだ、僕は、昔からそういうやつなのだ。

最近はその手合いなんてめっきり見なくなっていたから、心のどこかが油断していた。通勤のために毎朝訪れる駅の、毎朝見慣れた構内の風景に、異物が紛れていた。世間一般の審美眼ではあれは素晴らしいことで、少なくとも僕よりはよほど優れた人間らしい。彼らの持つ箱に書かれた「募金」という文字を、僕はまだ音読する勇気がない。

くだらないくだらないくだらない一日を終えて帰途につく頃にもまだ、頭の中からそれは離れない。彼らの言葉の上でのみの「お願いします」は暗黙の常識と良心の呵責を伴って人を責め立てる。幸いかどうかはともかく、僕はそれに完全な不感症でいるから、彼らの思惑通り動くことはないだろうけれど。彼らのうちの誰かが、すぐそこの居酒屋からおぼつかない足取りで出てきたなら、それは僕をとても安心させるだろう。

そうだ、僕は、昔からそういうやつなのだ。

begin

「価値だとか意味だとか、そんな高尚なものに思いを馳せなきゃやってられないやつは今すぐリタイアしちまえ。お前が嫌だ嫌だなんてぐずろうがもうレースは始まってる、スタートラインで駄々こねる見苦しさを露呈してもまだ呆けた顔で絵空事を口にし続けるんなら、お前を必死の思いで産み落とした親だっていつまでも浮かばれねえだろうよ。走ってみせて一人前だって証明してから文句を言え、挑戦する前から、自分に可能かどうか客観的に判明する前から、これには価値がないだの意味がないだのと自分を正当化しながら逃避するんじゃねえ。お前のやってることは、全ての他人に対する冒涜だ」 「実存だ何だとどこまでも疑わなきゃいけないような頭の持ち主は客席に回れ。お前を含め並走者を含め、疑おうが疑うまいがそこにそれは在るんだ。それを訳知り顔で本当はないだのあると思うからあるだのと、言葉遊びで他人を煙に巻いたところで何にもなりゃしねえ。在るものを在るかも知れないもの、と再定義したところで何の解決にもならない、それがわかったところで結局自分には何の行使力もないことを思い知るだけだ。がっかりしたいだけなら持ち馬に大枚はたく客席側に回れ。必要なのは、それが何かを知ったつもりになることじゃない。それに対してどうすればいいのか、どうするのか、だ」

ざわめきが周辺を包み、やがて何事もなかったように鎮静化する。夜が街を包むように明かりは弱くなり、何もかもが機能を停止したように静まり返る。やがて本当に誰もが動かなくなり、死ぬことを考え始める。

absent

「寂しくなるな」

本当に寂しいということがどういうことか、あなたはわかってはいないでしょう。私の言葉は声には変わらなかった。飲み込み直したところで胸焼けを起こすだけだったろうけれど、吐き出してしまうわけにはいかなかった。

「本当に、寂しくなる」

その目、その声。どれも、消えやしないのよ。

「どっちかが消えてなくなるわけじゃないわ。会おうと思ったらいつでも会える。だって、まだ同じ国に住んでるんですもの」

私にそんな気はないけれど。

「でも、僕らはもう会わないだろうな」

あなたは本当に寂しいということがどういうことか、わかってはいないわ。いつでも会えることだとか、これから会う予定がないだとか、そんなことは本当に小さなこと。これから繰り返す後悔に比べたら、本当に小さなこと。

silence

波を打ったような静けさの中、月の他に何も見えない真暗な闇の中、意図したものかどうか、ひそひそと小さな話し声がどこからか聞こえる。

「しかし、不幸中の幸いとはこのことだ」 「そうかね。私はいささか残念な心境だ」 「こんな真暗な夜、こんな静けさじゃ、君が話し相手としてここにいなかったら、俺はきっと頭がどうにかなっていただろうな」 「そうか、それは何より。だが私は、人の声も聞こえない静けさというものを、一度でいいから味わってみたかった」

しばらくひそひそ声は止んだが、舌打ちのように、ぼそりと一言だけ投げられた。その声は、どちらのものかはわからない。

「どうしてこんな夜に、こいつと」

kidding

「なあ、そんな目で見るなよ。こんな結果にはなったけれど、僕は君とのことを後悔なんてしていない。きっと君もそうだと思っていたけれど、ああ、そのことだけが残念だ」 「あなたは、随分お楽しみだったようね。いつだってそうだわ、苦しいだとか辛いだとか、そんなことを口にできる人間は幸せなのよ。だってそうでしょう、文句を言ったら誰かが助けてくれるだなんて。なんて幸せなのかしら」 「なあ、最後まで話を聞いてくれよ。そりゃ確かに、僕は最終的に君を選びはしなかったけれど、結果としてそうなったけれど、なあ、聞いてくれよ、まさか君だって、『愛してる』なんて言葉が本当に意味を持つなんてこと、信じてやしないだろう?」

lies

「ねえ、教えてちょうだい」

猫なで声で女が問い掛ける。鼻から抜けるような甘え声は、男をたぶらかすために身に付けたものか、それとも生来のものか。どちらにしろ彼女は、天性の素質を持っているのだろう。男を騙し、取り入るようなことに関して、の。

「どうして、あなたは」

けれど、天賦の才であろうと叶わないことはある。彼女はずっとそれを知らなかったし、不幸なことにそのことを思い付きもしなかった。彼女の周りにいる誰もが、彼女にそのことを教えなかった。彼らもまた、彼女がそのような局面に直面することは、天文学的な確率であると考えていたからだ。

「ねえ、お願い、答えて」

しかし、それは起こった。彼女は、彼女の思い通りにならない男に出会った。それはもう少し早ければ彼女を大いに成長させただろうし、もう少し遅ければ彼女にとって痛手にはならなかった、彼女を一生愛する男が現れた頃だったら。けれど、彼女はそのどちらでもなかった。それはつまり、悲劇ということだ。

「ねえ、お願い」

電話口からは声は聞こえない。彼女は生まれて初めての挫折に嘆き、二度と這い上がれない断崖を感じ、涙する。

snow

雪が降る、雪が降る。灰色で無機質な駅前の風景も、緑に溢れた郊外の愛すべき我が家も、何もかも真っ白に染めてくれる保証があるのなら、毎晩雪に埋もれて歩いても構わない。けたたましいサイレンの赤も、疾走するスポーツカーの青も、夕日の橙も、夕闇の黒も、全部何もかも真っ白に染めてくれる保証があるのなら。僕は、腰まで雪に埋もれて苦笑いすることだって、少しも苦しいとは思わないだろう。

「あなたは雪の怖さを知らないのよ」 「怖くなんてあるもんか。雪に比べりゃ、怖くないことなんてないよ。雪が怖いんなら、きっと僕は怖くないものを何ひとつ知らない」 「知らないから、あなたは」

本当は、何も白くなんて染まらない。ただ少しの間だけ表面を彩って、けれどそれは他の色と同じように不安定に、時間が経てば色褪せてしまう。純白のまま一時間もいられない雪は、他の色と同じように、それ以上に、繊細で無神経だ。何もそこに留めておかないし、何もそこにはない。雪は、僕が嫌う何よりも不安定で無神経で、何もないのだ。

「怖くなんてあるもんか」

何よりも怖いのに、何よりも嫌いなのに。

discrepancy

「君と僕はよく似ていたよ。ただ違っていたのは、君は女で僕は男。君は感情的で僕は理論的。君はいつも足踏みで、僕は足踏みをできなかった」 「惹かれ合ったのはお互いが似ていたせいだけれど、別れるのは些細な違いが許せなくなったせい? 足踏みをしないあなたは別れを悲しむ暇もないけれど、私はいつまでもここに留まって泣き続けるのよ」 「悲しくなんてないはずさ。そう、お互いにね。僕はもう恋心を通り越してしまったし、君はいつまで経っても恋を始めなかった。悲しくなんてないはずさ」

inconsiderateness

ははは、と、この上なく乾いた笑い声をあげながら、どこへ向かうでもない足取りは幾何学模様を辿るようにふらついて、今にも何かへ突撃するように倒れ込みはしないか、そんな印象を誰にでも与えるようなものだった。もっとも、僕の身を案じるものは一人もいないし、僕の行く末を案じるものも一人もいない。僕は、本当の意味で孤独だった。

「簡単に諦めるなよ、きっと上手くいくから」 「自分が独りだなんて思わないで」 「きっと分かり合えると思うよ、君と僕は」

皆、何もかもが敬愛の対象だし、尊敬だってしている。恨み? そんなもの欠片もない。僕も彼も彼女も皆、生きているし死んでいく。愛している、愛している、愛している。彼ら全てに分け隔てのない幸せを、平和を、安泰を、穏やかさを。愛している、愛している、愛している。皆、穏やかに死ねれば良い。誰かに希望を与えて絶望を与えて、穏やかに死ねれば良い。

empty

何の悲しいことがあろうか 何の悲しいことがあろうか

あったものがなくなることや いたはずの人がいなくなることが そんな当たり前のことが 何の悲しいことがあろうか?

手に入らなかったもの 辿り着けなかった場所 答えられなかった問いかけ 思い出せない約束

あるべきものがあるべきところへ 消えるべきものが消えて 残るべきものが残る そんな当たり前のことが

だから、 何の悲しいことがあろうか?

cry, cry, cry

もう、涙を流して泣くことなんてないのだろう。多分思春期の終わり頃からずっとそう思い込んでいたのだけれど、その根拠のない思い込みは、他愛のない出来事に簡単に切り崩された。難しい話じゃない。簡単なことが、簡単な理由で起こっただけの話だ。別段、難しい話じゃない。

夜の温度はまだ下がる一方で、それは僕の頬にある涙の道筋を冷たく冷やした。そう、涙は液体だ。保温について言えば最低ランクだ。最低、だ。夜に涙を気付かされた僕は、乾きかけたその道筋にもう一度涙が流れるのを、溢れたばかりの涙は体温を伴っていて少しだけ温かいことを、そのことを少しだけ悲しく思い、少しだけ嬉しく思った。

流れるのは、きっと証だ。何の証かなんて、それはまた別の話なのだけれど。

love like loveless

指の隙間からこぼれ落ちるそれを、ただ僕は美しいとだけ思いながら、眺めていた。日の光か何かを反射してきらきらと輝くそれを、ただ何するでもなしに、呆然と眺めていた。美しいとだけ、思いながら。

あるいはそれは、恋に似ていなかったか。あるいはそれは、恋に似ていただろう。何かに狂うほど焦がれ、代わりの何かで良しとしなければ、それは恋に似ていただろう。

しかしそれは僕がそれと気付いたとき、つまり、指の隙間からこぼれ落ちるのが無限のことでないと気付いたとき、そのときには、もう手遅れであった。僕の手は僕を満足させられるほどそれを溜め込んではおけず、すぐにそれは、別れを惜しむように少しずつその量を減らして、やがてぱったりとなくなった。

まるでそれは、恋のようではなかったか。

say goodbye

「最後に、君にお別れを言いたくて」

嘘だ。お別れのために君に会うなんて、嘘だ。僕はそんなに割り切れた人間じゃない。別れの挨拶を口実に君に会えば、奇跡が起きるんじゃないかと、そんなことを期待しているのだろう。あるいは君が僕に未練を感じるんじゃないかと、そんな浅ましいことを。

「元気で、幸せにね」

僕は未練がましい男だ。本当に最後の最後の瞬間まで、逆転の一打を期待している。それも、僕自身がどうにか努力して到達するような、そんな目標じゃない。あくまで、奇跡が歩いてくるのを待っている。浅ましい僕の別れの言葉を、黙って聞く彼女。

「さようなら」

僕は、君に、また会うだろう。

dreamer

「夢だったらよかったのにね」 「何が?」 「全部よ。あなたのことも、私のことも」

happinessless

「幸せって、どういうことかわかる?」 「さあ、よくわからないわ」 「そうか、僕も同じだ」

punishment

「だって、私とあなた、多分うまくいかないよ」

彼女は微笑みながら、確実な死刑宣告を下した。それは彼女にとって、あるいはその周りに散在するごくありふれた連中にとって、何気のない冗談であったはずだ。僕に向けて性格の不一致を冗談めかして告げる、ただそれだけのことであったのだ。けれどそれは確実な、僕にとって何よりも耐え難い、強烈で悲劇的な機会に与えられた、死刑宣告であったのだ。

「ね。だから」

僕は冗談でそんなことを口にした、過去の自分を殴り殺してやりたい気分になり、未来の自分に殴り殺して欲しい心境になる。やがて僕は象徴的な意味での自殺を図り、その心を殺した後に生まれ変わるだろう。

彼女の死刑宣告は実施を待つでもなく、僕を殺しただろう。

pass

「ようやく君の魅力に気付いたんだ。やり直さないか、俺たち」 「残念だわ、私と入れ違いになってしまっただなんて」

truthly

「本当のところ僕は、君のことが嫌いだったんだ。何かの熱にうかされたように入れ込んでいたけれど、終わった今になってわかったよ、全ては裏返しだったことが。僕は、君のことが嫌いだったんだ」 「くだらない嘘ばかり」

someone said

「要するに彼らは、自分自身がいかに不幸であるかを主張したいだけなんだな。彼らの境遇がいかに不遇で情けないものか、そこに身を委ねる自分の何と献身的で我慢強いことか、童話であればいつか救いの訪れる健気でひたむきな自分、なんて」 「じゃあ君は、彼らに何て言える? 死刑宣告でもできるのかい?」 「そんな必要がどこに? 彼らは自分自身の、彼ら自身の手で、自らをどうしようもない存在だと証明しているのに。これ以上彼らを打ちのめす必要がどこにあるっていうんだい?」

older

「『老兵は去るのみ』ってのはよく言ったもんだな。思うに、アタマが固まって悲観しかできなくなっちまった人間はさっさと舞台を降りるべきなんだ。自分がいなくなることでその分、若者にチャンスを与えてやるべきなんだ。なぜって、もうそうなっちまったら末期だからさ。成長できないやつが成長するもののための居場所を占拠するだなんて、馬鹿馬鹿しくてあくびの出る話だろ?」

know

「誰だってわかってるんだ。愛し続けられる人間なんてどこにだっていやしないし、愛され続けられるべき人間なんてどこにだっていやしない。それは限定された時間の中であるから、価値があるし意味を見出せる。そして、苦痛に感じないんだ。与え続けられる人間なんて、いやしないんだ」 「でも、だからって、どうだっていうんだい?」

will

「手放してしまったそれがどんなに素敵で大切なものだったかに気付くことができたなら、戻らない時間と自分の最大の失敗をこれからじっくりと思い返して、本当に癒されるその瞬間まで(しかしそれは決して訪れないだろう)、底辺の底辺をのた打ち回るといい。それが、君の償いだ」

tears in heaven

発作のように嗚咽する。それに意味などなく、なぜならもう全ては終わってしまっているからで、僕の、単純な自己満足か自己防衛かのどちらかだ。全てはもう終わってしまっていて、失うことは決まってしまった。もう、どんな力の持ち主でもそれをひっくり返すことはできない。僕はこれから眠れない夜を重ね、いつまでも足枷のようにこれを引き摺って生きていかねばならない。

「もしも天国で会えたそのとき、君は僕の名前を覚えていてくれるだろうか」

lost

「もしも明日、何もかもなくすとしたら、そう考えると怖くなるの」 「何も失わない明日なんてあるものか」

no joke

「……止してくれないか、悪い冗談は」 「人生なんて、悪い冗談そのものだわ」

lack

「未来に価値なんてない。いつだって、輝いてしまうのは未来より過去じゃないか。未来に、希望なんてない」

誰かを罵りたいわけじゃないけれど、僕の口はそうやって動いて、そしてその端は、何かをばかにしたように笑っていた。全て放棄して、ただ笑っていれば、そう思わなかったわけじゃない。

laughless

「もっと、笑えばいいのに」

彼女は素敵な笑顔でそう言った。その笑顔に始終癒されている身としては勝手極まりないことなのだろうけれど、僕は、もうその笑顔が僕に向けられないことを少しだけ祈った。責め立てられるような、そんな気分に近いものがあった。

彼女は、笑顔を作れない人間のことを知らない。例えば、僕のような。

nowhere

僕らは、ここでは自由だと思っていた。どこの国のいくつの誰が何を話そうとも、それは僕らの自由だと思っていた。もちろん、自由には責任が伴うし、時にはそれが僕ら自身を傷付けもするだろう、けれど、僕らの何にも属さない自由は、僕らのもので、僕らを突き動かすことができる。そのはずだった。

つまり、そう思っていたのは、僕らだけだった。

rescuer

「君は、何かに救われたことがある? 全てが許されたような、そんな気分になったことがある? あるって? そうか、君はなんて不幸なやつなんだ」

donation

「どうしてあなたは寄付をしないの? うちの職場で、いえ、このオフィスビルのこのフロアで、慈善団体に寄付をしていないのは恐らくあなた独りだけだわ」 「なぜ寄付をしないのかって? どうして僕が僕自身のために僕自身の手によって稼いだ金を、見ず知らずの誰かがただ食うためだけにくれてやらなきゃいけないんだ?」 「なんてことを言うのかしら。そんな、お金なんて概念上のものじゃないの。そんなものに固執して人間らしさを失ってしまうなんて、あなたは可哀想な人」 「人間らしさ? だとしたら僕は、毎晩その食うに困った子供たちのために祈りを捧げてやるし、二日に一回くらいは涙だってする。僕が僕の人生をコントロールすることをどうして君に邪魔されなきゃいけない? 君には何の権利があって、僕が生きるための糧をどこかへ放り投げようとするんだ」 「ああ、可哀想な人、ああ、可哀想な人」 「それでも君は金を寄越せというのか。人間らしさだの慈善だの綺麗な文句を並べておいて、結局金を払わなきゃ僕は何もしていないのか。祈りも、涙も、人間らしさじゃないのか。概念上の金なんてものに固執してるのはどっちだ、よっぽど君の方じゃないか、くそったれ!

effort

「努力すればそれだけで報われることが約束されるっていう、そんな現状に辟易するよ。もちろん報われないタイプの努力があるだろうことも知っている。けれど、報われる条件には全て努力が含まれている」 「努力することだってひとつの才能だろう。ならば聞くけれど、なぜあなたは努力をしないのか。できないからだろう。その才能がないのに、負け惜しみを言っているだけだ」 「なぜ僕が努力をしないのかって? 簡単な話さ、お前ら全員が心の底から嫌いだからだ」

passed away

「だから、ね」 「じゃあ、さよならだ」

weep, laugh

最後に笑えばいいのだ。最後に笑えばいいのだ。結果としているべき場所にいられるのであれば、その間の不遇だなんてものは、大した問題ではないのだ。私は私を勇気付けることができるし、その結果、その場所へたどり着くことだってできることを知っている。

「……でも」

パーフェクトなことなんてありはしないことだって、わかっている。私は、私が折れない人間である、だなんて、たったの一度だって思ったことも、望んだこともない。

deadheadz

「死んだよ」

さもそれが何でもないことかのように、彼は、ぽつりとそれだけつぶやいた。僕は彼から目を逸らすことができずに、そうしてしまうことで彼の言動や態度や何から何まで全て赦して、許容してしまうような気がして、僕は彼から目を逸らすことができずに、ただ立ち尽くして次の言葉を待つのみだった。

「死んだよ。何だかとっても、簡単に」

僕は、彼から目を逸らすことができないまま。

mess

「だって、あんたが悪いんじゃないか」

彼の言葉は何の迷いもなく、戸惑いもなく、私もそのようにできればどんなにか気分が晴れるだろうか、と、少しだけ考えさせてくれた。

「そうね、私が悪いんだわ」

i love you

「もしもそうなったとしたって、何も悲しいことなんてないさ」 「そうね。少し滑稽なだけだわ」

workaholic

「だとしたら君は、仕事だと言って押し付けられれば何でもこなしてやろうというのかい。例えば君の上司が悪事を働かせようとして、君はその片棒を担ぐような真似をしてしまうのかい」 「それより何より、君は君に悪事を働かせようとするような人物を、自分の上司として認めちまってるのかい?」