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「君の名前は、何といったかな」
投げかけられた言葉に体のどこかが反応したのか、深い眠りから覚めたように、意識が徐々に形を成していく。周囲の景色は初めて目にするもののように思えるが、知らない場所というわけでもなさそうだった。あるいは無意識のうちに自分の目が開いていて、ただその景色を機械的に、無機質な情報として頭の中に刻み込んでいたのかも知れないが。見覚えはあるが、どの類の感情も刺激しない景色。
「君の、名前は」
最初に問いかけてきた言葉が、もう一度尋ねる。言葉のする方へ体を向けると、部屋の隅で小さな事務机に向かって座る、初老の男性がこちらへ顔を向けていた。
「名前」
彼の右手では万年筆のようなものが、いらだちを抑えるためか、右のこめかみへあてがわれる役目を果たしている。事務机の上には古めかしい帳簿が広げられ、読み取れない文字で何かが書き連ねられている。薄暗いこの部屋に男性はいかにも似つかわしい様子で、そういえばこの部屋はどことなく、警察官が容疑者を調べるような部屋に似ている、と想起させるものだった。そんなところへ足を踏み入れたことのない自分にそう思わせるのは、薄暗さ、古めかしさ、生活感のなさなどが、自分に紋切り型の印象を与えているだけに過ぎないかも知れないが。
「そう、君の名前だ。教えてくれないか」
万年筆が右のこめかみを離れ、帳簿の紙面で軽快な音をたてる。彼はうんざりしているようにも見えたが、それにしてはどことなく、諦めのような風情も漂っているように思われた。天井からぶら下げられているのだろう電球が、彼の表情に暗い影を落としてみせる。そういえば、この部屋には窓がない。
「僕の、名前は」
「後悔することってある?」
彼女の言葉はいつも突然で、そのときも僕は普通にドライブを楽しんでいるつもりだったのだけれど、どうやら彼女はそういうことで悩んでいたらしい。目の前をゆっくりと走るトラックから注意を逸らさずに、ハンドルを握りなおして言葉を返す。
「しないことはないよ。しっぱなしでもないけど」
しばらく黙り込んだ後、思い詰めた様子で一言。
「今日ね、別の男の子にも誘われてたんだ」
彼のことは嫌いではないけれど、二人でどこかへ遊びに行くような気は今のところ自分にはないし、もしそうして相手に勘違いさせるようなことがあっては申し訳ないし、何より自分も自分の身を守るなんてことを考えなきゃいけなくなるかも知れない。だから今回は彼からのお誘いは丁重にお断りして、前から約束のあったドライブへ出かけることにしたけれど、そういえば恋人でもないあなたとこうして二人で出かけるなんて、彼が知ったらどう思うだろう。彼女は、そんなことを矢継ぎ早に口にして、また黙り込んだ。
「僕は」
ため息をつく。
「今君が僕に話したこと、どうにかしてたら聞かないで済んでたんじゃないかって、そのことを今後悔してる」
「面接もしないんだと。どうかしとるわ」
久し振りに訪れた学食はもう昼時を過ぎていて、僕の他には二人の男女の清掃員が向かい合わせに座っているだけだった。彼(と彼女)は何か愚痴をこぼしあっていて、机に置かれた食事にはあまり手をつけていないようにも見えた。
「うちんとこのが一人、来月いっぱいで定年になるんだわ。そんでどこかからつてを辿って来るらしいんだけど、もう五十四なんだと。ありゃあかんわ」
そう不貞腐れる彼はもう定年まで三年もないらしいし、僕の記憶が間違っていなければ彼は二年前にここへ就職したはずだから、人事に口を出せるほどにベテランというわけではないはずだ。彼が文句を付ける年齢のことだって、彼に言えたことでもない。
つまりは、そういうことだ。
「どうかしとるわ」
ハッシュドビーフは、まだ熱かった。
むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました。ふたりはひとざとからすこしはなれたおがわぞいにすんでいましたが、ひとがらのよいおじいさんたちをしたってわかものがときどきたずねてくれるので、ふたりのせいかつにはとくにこまるようなことはありませんでした。ねんじゅうあたたかいためくらしやすいとちがらで、ちいさなはたけをたがやし、おがわでさかなをつかまえ、もりできのみをひろえば、たべるものにこまることもありません。おじいさんたちをたずねるわかものたちも、かならずおみやげにたべものをもってくるので、ふたりはここすうねん、ひもじいおもいなどしたことがありませんでした。
「じゃあ、いってくるよ」
おじいさんはやまへしばかりにいき、ひとしごとおえてからはたけへむかうのがにっかです。
「いってらっしゃい、おじいさん」
おばあさんはおがわへいってきものをあらい、てんきのよいひにはもりへあしをはこぶのがにっかです。
ふたりはなにふじゆうなくおだやかにくらし、やがておじいさんがてんにめされるそのときまで、しずかでへいわなひびがつづきました。おだやかなえがおをうかべるおじいさんをみつめながら、おばあさんがたずねます。
「おじいさん、なにか、たりないものはありませんか」
おじいさんはこたえていいます。
「とくにないが、ぜいたくをいうと、おだやかすぎるまいにちにすこしだけつかれていたきがするよ。へいわがいちばんだとはわかっているが、おにたいじにむかうむすこがいたら、とおもうこともたしかにあった」
やがて日が暮れたとき、数十年振りに鬼が近くの村を襲い建物も村人も全て焼き払ったが、寄り添うように召された二人がそれを知ることは最期までなかったということです。
それがぼくの頭を埋め尽くしたのはもうずいぶんと昔のことで、その事実自体にも辟易しながらしかし抜け出せないでいる、思春期の悩み多き若者、なんて、柄にもないとはわかっているのだけれど。現実問題そこから一歩も動けないでいることだけは確かなのだから、まずそれを認めるべき、ではあるのだけれど。
「何考えてるの?」
突然、彼女はいつも突然現れる。ぼくは自分の頭の中身が覗かれていやしないかと、なぜこうも彼女のことを考えているときに限って目の前に現れるのだろうと、いつもそんなことを考える。必死でそれを皮膚の下に隠して、冷静な表情を作り上げて受け答える。
「別に、何も」
彼女が、嘲笑に歪んだ表情を見せる。
「女の子、当たり?」
ぼくは、きっと苦笑いだろう。
「当たり。きみのこと」
些細な反撃を試み、彼女をひとまず退かせることには成功するのだけれど、それが何になるわけでもないことはわかっていて、それはずっとそう繰り返してきたからなのだけれど。けれど、今日は一味違う手応えがあったようにも感じた。彼女の口が、声を出さずに動く。
「なんて?」
聞き取れないのではなくて、彼女は声にしなかった。
「さあ、好きな台詞当てはめたら?」
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