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afraid

「怖いなぁ」

わたしの小さなつぶやきを彼は聞き逃さず、何が怖いの、と優しい声をかけて頭を撫でる。わたしは甘んじてそれを受け入れ、彼の胸に頭を寄せながら、こうして無意識に依存してしまうことや、それをあなたに知られてしまうことが怖いのよ、と、心の中でだけつぶやく。

命の終わるときに誰と一緒にいるのか、誰とも一緒にいないのか、それは今のわたしに知ることはできないけれど、今わたしの心を読み取れずに頭を撫でている彼とそうなりたいと、思ってはいない。

「もし明日死ぬことになったら、どうする?」

うーん、とうなってから、彼が途切れ途切れに答える。

「わからないよ、そんなこと急に言われても。でももし、君が嫌だって言わないんだったら、今みたいにこうして頭を撫でてるのも悪くない」

それ、なのよ。あなたは、人間が他人という存在なしには生きられないことや、自分では気付かないほどに心を委ねてしまうことや、結局最期の最後にはやっぱり独りになってしまうことを、知らないのだ。だから素敵な言葉に溺れたり、おとぎ話に酔うことができるのだ。

"Don't be afraid. god bless you."

何かの台詞が頭をよぎる。

『例えば日差しの暖かな小径を愛する人と二人で歩くとき、あなたの頭から病や死の一切はその姿を消すだろうか? もしそうだとしたら、それは幸せなことだろうか? 死ぬことを恐れずに、生きていられるだろうか?』

rendezvous

いつも通りのデートコースを通って、いつも通りの夕食を済ませて、いつも通りホテルで一晩を明かす。数週間に一度のこの習慣は、彼女が結婚した頃に始まって、彼女が子供を産んだその前後数ヶ月を除いてずっと続いている。これからも続くような気もするし、明日にも終わるかも知れない。

シャワーを浴びてローブに着替え、彼女がベッドサイドに腰を下ろす。何年経っても変わらないラインの脚を組んで、煙草を一本取り出し火をつける。

「あれ、煙草なんて吸ってたっけ」 「家じゃ吸わない。子供、まだ小さいし」

ふう、と慣れた様子で煙を吐く。結婚前は喫煙の習慣があったのかも知れない。

「じゃあ、僕と君の秘密ってわけか」 「今さら何言ってんのよ」

僕らの付き合いはそのものが秘密だから、と、彼女は笑ったのだろう。けれどその笑顔には翳りがあるような気がして、僕は彼女をじっと見つめた。彼女は、根負けしたようにため息をついた。

「あなたが煙草嫌いだって知ってるから。早く嫌いになってもらって、こんな関係終わりにしたいのよ」

そう言って彼女はふう、と、僕に煙を吹きかけた。

alarm

「くそ、安物め」

PM 11:00、ようやく寝付けた頃、目覚し時計に叩き起こされる。昨日は偶然仕事が休みになって(近年稀に見るサイズの台風、休業の損失と社員の命を釣り天秤にかけた所長の英断!)昼過ぎまで眠れることになったものだから、目覚まし時計のアラームを十一時過ぎにセットしたことをよく覚えている。この安物目覚まし時計は、午前と午後の区別がつかないらしい。

「一日が十二時間サイクルだなんて、素敵な生活してるよお前は」

けれどそれももう終わりだ。反射的に振り下ろした腕の下で、不幸にも事故に遭った人間の中身がそうするように、大事なパーツをぶちまけてしまっているらしい。時間が時間で真っ暗だから、そうらしい、ということしかわからないのだが。明かりを点けないままベッドから這い出して、何か飲むものを求めて台所へ向かう。

「血、出てる」

安物の目覚し時計を叩き潰した腕から、一筋、血が滴っている。そういえばあの時計は、半年前に別れた恋人が置いていったものではなかっただろうか。

「半年遅れで関係の清算、なんて」

冷蔵庫を開け、物色し、茶色の瓶を取り出す。そこから直接胃にウィスキーを流し込み、一息ついて、また流し込む。二回トイレに駆け込んだ後、ようやく彼女のことを忘れて眠りの淵に落ちることが出来た。時間は何時頃だったか、なんて、壊れた時計では知る由もなかったけれど。

repulsion

無償の愛とかいうやつを信じていた純粋な頃から、君との言葉のやり取りは実に素敵なものだった。一年も経たずにそんな季節は過ぎ去ってしまったけれど、その一年弱は僕にとって実に有意義で、恐らく無意識の君から数え切れないほどの物事を学び取ることができた。大人の事情もルールもやり口も、いつまでも嫌悪するものではなかった。いつかは誰もが、それに歩み寄ることを知るのだ。

「いつも君の言うことは、抽象的で哲学的だよね」 「そうかな。現実離れしたことは言ってないつもりだけど」

そう、僕は純粋だったから、真実が現実でないだなんて思いも寄らなかった。それを教えてくれたのは、君だった。

「本の中から出てきたみたいな人だよ、君は」

無償の愛とかいうものはもう信じていないし、そんなものが存在したところで誰かのためになるとは思っていない。全員が全員納得するような答えはどこにもないし、それを期待させるようなその言葉は誰のためにもならない。ないものは、ないのだ。

「へえ、僕も君のことをそう思ってた」

君との言葉のやり取りは実に素敵で、それは間もなく僕の目を覚まさせてくれた。他に得るものなど何もなくて、人間関係なんてそんなものだと知ったことも、僕にとっては大きな収穫のひとつだった。

さようなら、君。

repentance

「ねえ、聞いてる? どうかしたの?」

僕がよほど間抜けな表情でも浮かべていたのか、彼女は話を途中でやめて、僕にそう尋ねた。

「どうもしないよ。どうして?」 「だって、笑ってる」

頬を軽くさすってみたり、少しだけ引っ張ってみたりしたけれど、無意識にどんな表情を浮かべているか、なんて、自分自身でわかるはずもない。それが一瞬のものだったならなおさらだ。

「そう? ちょっと考え事をしながら君の話を聞いてたけど、そんな、笑うようなことなんて」 「何を考えてたの?」

柔らかい口調でも、鋭く核心に迫ろうとする言葉。

「昔の友達のことを思い出してた。君に、横顔が似てる」 「女の子?」 「そりゃそうだよ。君みたいな男は知らないよ」 「その子のこと、好きだった?」

彼女の言葉は、ときに遠慮がない。突然土足で踏み入られるようで僕は身構えることもあるけれど、きっと彼女にとってそれはとても自然なことで、筒抜けな感情も含めて、彼女の自然体なのだろう。

「今考えると、ね。当時は思いもしなかったよ」 「後悔してる? 今になって」 「さあ……少なくとも、一生あんな想いはしないだろうね」

彼女が口をとがらせる。

「君とのことだって多分そうだ。君みたいな女の子は他にいないから、一生ものの経験だと思ってるよ」 「ずるい言い方」

そうだね、と小さくつぶやきながら僕は、当時の自分がこんなずるい言い方を心得ていたらどうなったろう、と、少し残念に、少し心躍る気持ちでいた。

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