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spectacles

寝起きの頭を奮い立たせて、ベッドライトの明かりを頼りに眼鏡を探す。欠伸をひとつふたつ重ねると、少しずつ視界が現実味を帯びてくる。涙が世界を歪めて、レンズの役割を果たす。

耳にかけた眼鏡は僕を叩き起こすように、雑然とした部屋を僕の目に強制的な力で認識させる。これが現実。部屋の整理整頓もままならない、独り暮らしの華のない男。眼鏡をかけることもそういう印象を与える要因になるかも知れない、と思ったこともあるけれど、それはもう昔の話だ。いい男は眼鏡だろうとコンタクトだろうといい男だし、だめな男が眼鏡をコンタクトに替えたくらいでだめでなくなることはない。眼鏡がどうだとか、そういうくだらない責任転嫁が、何よりの証拠だ。

「そう、くだらない、くだらない」

華のない、くだらない、ぱっとしない、悪い意味でのリアリティ、没個性、その他大勢、名前のない大衆、有象無象の一人。

眼鏡を外して、洗面所へ向かう。ぼやけた世界は、誰かと向き合う必要性を少しだけ忘れさせてくれる。

life science

「思うにだな、生命いのちというやつは、ひとつの連環linkageなんだよ。啓蒙家だの宗教家だのは、お前がお前として生きるように『お前の道はお前だけのものだ』なんて煽るが、そんなことはない。何千年も生きてきた人間の根っこの部分は、どこかで深く繋がってるんだ。お前が通った道が先に通られなかったことはないし、お前の道を後から追うものだって現れる」 「へえ、そういうものかな」 コギト・エルゴ・スムcogito ergo sumなんて嘘っぱちだ、お前はお前が望もうと望むまいとそこに居るし、お前を含んだ大きな流れはお前の意思とは関係なく流れ続ける。これは別にお前を煙に巻こうなんて気持ちから言うんじゃないぞ。数十年昔にはお前も赤ん坊だったし、あと数十年生きられるなら皺くちゃの年寄りになるだろう。洟をたらしてた時期もあれば、足腰立たなくなる時期もあるだろう。だけどそれは誰もが繰り返してきたことで、これからも繰り返すことだろうし、お前はそれをいつかどこかで暗に認めて」

僕の気のない返事に対して、それに気付いてか気付かずか熱弁を振るっていた彼は、ふと、小石に躓いた拍子に何かを思い出したような、そんな様子で喋るのを止めた。

それも、長くは持たなかったけれど。

「まあ、そういうことだな」 「どういう?」 「簡単なことさ。お前も俺も、生きている」

rescue

こえはとどかない こえはとどかない だれにもこえはとどくはずがない ひとりふるえてあさをまつだけ

どれくらい眠っていたのだろうか、私が目を覚ましたときには、明り取りの窓から差し込む光は夕日のそれへと変わっていた。昼日中から繁華街のホテルへ足を踏み入れることになるなんて、しかも相手は本当の名前も知らない行きずりの男、だなんて。

(ちょっと魔が差したのよ、こんな男と)

しかもいい歳した中年のおやじだなんて、お酒もなしに酔っ払っていたとしか思えない。こんな、太って脂ぎった醜い男。

タオルケットを体に巻きつけて、ベッドからそっと下りる。男を起こさないよう、できるだけ体に触れたりすることもないよう、ベッドから少し距離を置いてぐるりと壁沿いに部屋を歩き、洗面所へ向かう。蛇口をひねって少し水を流し、右手でそれをすくって目元にこすりつける。流れ落ちたしずくはまるで涙のようで、私はその情けない顔を笑いたかったけれど、そうしたら本当に涙が出てしまいそうで、泣きそうな顔になりながらそれを堪えた。

だれもきづかない だれもきづかない たすけはいつまでもあらわれないまま ひとりふるえてよるをこわがる

truth

「本当は」

本当は、なんて切り出したことは失敗だった、と私はすぐに後悔した。私には語れる真理なんて何もないのだし、自分の意思や行動原理を一口に説明し切れてしまうほど薄っぺらな人間でもない、と思っている。せいぜい「結局」だとか「つまり」だとか、話に現れた要素をまとめる程度の言葉にしておくべきだった。

「本当は、全部決めてたことなの」

ああ、嘘つきめ。何も決まってなんていなかったし、今も決まってなんていない。運命なんてものも信じていないくせに、未来を決め打ちできるほど強い意志なんて持っていないくせに。

「だから、そんな顔しないで」

言いたかったのはそれだけ、言えるのはそれだけ。虚ろな声が響く。

jam

暗い部屋で一人、テレビはつけたまま。

『ハニー、本当の愛ってのは目に見えないのさ』 『でもダーリン、最高のディナーは目も楽しませて当然よ』 『そりゃそうさ、見えなきゃ食べられないものだからな』 『じゃ愛もそうだわ、夢だけでご飯は食べられないもの』

くだらないやり取りで腹を抱えて笑えることのできるお国柄だったら、私はいくらか気持ちを楽にしていられただろうか? 明日へ向かう顔に気力を溢れさせて、小さな人間関係のこじれなんて痛手になり得ないわ、なんて、強気の発言で自分をごまかすことができていただろうか?

乗客に日本人は、 いませんでした。 いませんでした。 いませんでした。

夜が明けるのは、どれほど先のことか。途方もない。

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